2年間大学を休学して、旅に出た。

「現代の世界でしか見れない景色をこの目で見たい」

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そう思い立ち、学生時代の全てを旅に捧げた。81ヶ国(内未承認3ヶ国)を旅し、しかし、その旅路のほとんどは辛く過酷なものであった。

 

全ての始まりは20歳の誕生日が迫ってきた大学2年の冬。

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このまま学生時代が終わるのは嫌だと、何か行動したくなった。短絡的な思考でぽろっと出てきたもの、それが旅だった。パスポートを取得し、そのまま2ヶ月ヨーロッパの旅に出た。外国へ行けば何かが変わるだろうという淡い期待は、羞恥の念として心の奥に落ちて行った。英語が話せない、コミュニケーションがとれない、旅に出れば何かが変わるという他力本願で受け身な姿勢だった自分に嫌気がさした。その旅の最後の日にアメリカ人の報道記者に出会った。

「これからイスラエルに行く」そう言って彼はいろんな質問を私に投げかけたが、国際情勢も英語もわからず2つの意味で「I don’t know」と、それしか言えなかった。初めての海外旅行は苦くもどかしい記憶を引きずったままの帰国となった。

 

日本に帰国してから彼が見た世界を見たくなった。

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イスラエルとはどんな場所なのか。中東で今、何が起こっているのか。私は中東に魅せられていた。そして、大学3年の夏休みを使って中東へ赴いた。百聞は一見にしかず、その言葉をずしりと感じた1ヶ月だった。

私が旅したその当時、イスラエルレバノンが紛争をはじめ、イスラエルの放ったミサイルが全く関係のないヨルダンの地へと落ちた。誤射のミサイルであった。複数人死亡したにも関わらず、人々はそこで普段の生活をしていた。それが衝撃的で今でも忘れられない景色として脳裏に残っている

そしてそれが、私の人生においてのターニングポイントであった。

「世界で起こっている、現代でしか見られない世界をこの目で見たい」そう強く思い、その半年後に2年間の休学届けを大学に出し、旅に出た。

 

2年間の旅に出たのは2011年3月18日。

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旅に出たのは、東日本大震災の1週間後の事であった。これから始まる長い旅への期待もあったが、正直、後ろめたい気持ちの方が大きかった。不謹慎ムードが日本を漂う真っただ中、出発の見送りには1人も来ずに、ひっそりと日本を旅立った。

大阪港から船に揺られ3日間、中国上海に足を踏み入れ、そこから私の長い旅が始まった。国境が未だ定まっていない紛争地ジャンムーカシミールミャンマーのカチン、四川やスマトラ島、イラン・バムなどの震災地、言葉が消え行くコーカサス、全く観光地ではない、そんな土地を巡りながら旅をした。

今の時代でしか見れない世界を求めて。

 

イランの首都テヘランで拘束。

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イランで撮ってはいけない写真を撮ってしまった。

旧アメリカ大使館の壁画、アメリカとイラン、負の歴史の場所であり、今もなおアメリカを誹謗中傷する絵や言葉が沢山書かれている、そんな場所でもある。壁画を撮影している最中、私服警官に捕まり拘置所に送り込まれた。暴力を伴う取り調べの中、これまで歩んできた自分の旅路、その全てに後悔をした。「いったい誰の為、何の為の旅なのだろうか」と。

人に迷惑をかけ、嫌がられるような問いかけを震災地や紛争地で出会った人に投げかけ、ジャーナリスト気取りで自分が振る舞っていたその姿、その存在が、いかに傲慢で非情なものだったか。自責の念に苛まされた。そして、旅をやめることにした。全てを忘れて、日本へ戻ろうと。イランの隣国、トルコから日本への直行便が出ている。そこから帰国しようと決めた。

しかし、私の旅は不思議な事に、旅をやめようとした時に、まるで仕組まれたかのように出会いがあるのだった。

 

自転車旅の始まり。

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イスタンブールで自転車を譲ってもらった。自転車旅に必要な物全てを譲り受けた。厳冬期の 東欧は-20°Cを記録するほど冷え込み、身を裂くような寒さの中走り続けた。積雪の中でも、野犬が犇く森の中でも野宿した。思えば、そこから私の頭のネジが1本、また1本と飛んで行く。順調に行くかと思われた自転車旅だが、2ヵ月後のルーマニアで全てを失った

悲しみよりも、自転車を譲ってくれた人への罪悪感が強かった。申し訳なく思った。ここが旅の終わりなのか。 悩んだ末、スペインへと渡り、新たな自転車と装備を揃え、アフリカ大陸を目指し走り出した。 

私は自転車旅に魅了されていた

 

アフリカ大陸自転車縦断。

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スペイン、バルセロナを出発し、 アンダルシアの大地を駆け、アフリカ大陸へと船で渡った。モロッコの草原を抜け、2200kmのサハラ砂漠を走破しブラックアフリカに突入した。紛争後社会を歩むシエラレオネリベリア、クーデター下のギニアビサウとマリなど、思い返せば本当に無謀とも思えるような国を走った。しかし、西アフリカを訪れていなければ、この旅は成立しなかったであろう。それほどまでに、衝撃の強い地域だったのだから。

アフリカを10,000km近く走り、南アフリカまであと一歩という所だった。ナミビアという国で自転車を盗まれた。力が一気に抜けた。心のどこかで、自転車旅をやめる理由を探していた自分がいた。悲しむ反面、ホッとしていた

 

アマゾン河を筏で下る。

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南米に飛び、アマゾン河に魅せられた。その全ては植村直己が書いた青春の手記「青春を山に賭けて」だった。この本に出会わなければ、今の自分は成り立っていない。それ程までに今なお影響を与え続けている。

植村直己のように、イカダを作って、それでアマゾン河を下る、この旅で一 番危険な挑戦だった。家族は反対した。それを押し切る形で、私はそれを実行した。私には、やめる勇気、一歩引く勇気、それが無かった。イカダで3ヶ月程流れる予定だった。しかし、14日目の晩にイカダが沈木に激突し、イカダは大破した。そのまま一晩流れるままに、流された。今まで体験した事のない恐怖が私を襲った。涙を幾ら流しても、どれだけ叫んでも、誰も助けてくれない。

自分は死ぬのだろうか、そう思った瞬間、家族の顔が頭に浮かんだ。

 

アマゾン河の冒険、その先に見えたもの。

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私は、本当に親不孝な人間だ。 旅に出る前、遺書を書いた。置き場所は自分しか知らない。そこには「人生に悔いはないから」と、そう書いた。その時は、旅している時が人生で一番幸せのピークだと思っていた。だから旅の最中で死ねるなんて、幸せな事だと思っていた。この先の人生、働いて、働いて、働いて... そんなの楽しくないと思っていた。

だけど、そんなのは、嘘だ

死というものが目の前にやって きて、初めて気がついた。 俺は、まだまだ、やりたい事いっぱいある。こんな所で死ねるか、と。必死に生にしがみ付いた。翌朝、近くを通りがかった木船に助けを求めた。何を言ったのか覚えてないくらい、とにかく叫んだ。 そして、私は助かった。実に無茶苦茶な旅である。そして、ただひたすらに、馬鹿である。

私は旅の終わりまで、旅に出た事を後悔していた。一つの夢を抱えて旅に出たが、結局自分自身に負けて逃げ出したのだ。逃げた先が、自転車旅で、だからこそ我武者羅に走った。走れば、後ろめたさも何も感じなかった。辛さが心を救っていた。イカダ下りもそうなのだ。逃げなのだ。 普通にバックパックの旅をしていると、何か罪悪感というか、そういう気持ちが襲ってくる。 しかし、イカダ下りが終わって、帰国までの道中で自分の旅を改めて見つめなおした。自分の旅を肯定的に見られるようになった。面白い旅だったと、そう思えるようになった。

 

私は、旅に出て良かったと、心から思っている。 1年10ヶ月、61カ国(内未承認国家3国)、本当に長い旅だった。

 

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